カン蹴りから思い出した父の話@

 

 

 

子供の頃よくやったカン蹴は、ルールも忘れてしまっているし、どんな遊びだったかも、ハッキリとは思い出せない。テレビを見ている時などに、つい、カンを蹴り殺してしまえ、などというと細君の機嫌が悪くなる。蹴り殺すというのは、どうやらルール違反らしい。

それなら、一国の総理ならば国民を無差別殺傷しても良いのか。それはルール違反ではないのか。んんんんんん・・・・。そんな馬鹿な質問には答える義務はないだと?・・・。当たり前だ----もともと首相は、そんな遊びには参加されていませんだと???。エダノついた豆をつまみながら、カンビールを飲んでいる閣僚の誰かがそんな答弁をしていたような気がするのは空耳なのだろうか。最近では閣内でもカン蹴りゲームは行われていると聞いているのだが・・。

ところで、蛙は歴代の首相の誰とも一度も口をきいたことがない。何度かナマの演説は聴いたことはあるのだが。会った時は総理ではなかったが、その後、その人が総理になった、というケースにも巡り会わなかったし、これからも恐らく蛙の一生には、そうした出会いはないだろうと思われる。

しかし、遠い昔、蛙の父にはそんな出会いがあった。父は今年の秋には93歳になる。政界でいえば田中○栄や中曽○根康弘と同い年である。半月ほど前のことだったが、父が懐かしそうに語った。

会議の後で、局長以下全員が大広間で一杯やることになったんじゃ。で、わしは一番下座で、同僚とわいわいやっておった。ふと上座の方に眼をやると、局長がこちらに手招きされとるように見えるが、誰を呼んでおられるのか解らん。すると、自分達より上座の席にいた直属の上司が、わしの所へやってきて言うんじゃ。局長がお前を呼んでおられる、と。

で、行ってみると佐藤さんがわしに杯をくれて、まあ一杯やってくれ、君は会議の場で素晴らしいことを言った----そう言って褒めてくれたんじゃ、と言うのだ。佐藤さんとは、当時運○省大阪○道局長だった佐藤○作のことなのだ。

以前にも何度か、元首相の佐藤さんと杯を取り交わした話は聞いたことはあるが、自分をわざわざ呼んでくれたという話はきかなかった。最近の父の話のなかには信用できない部分がいくらかあるので、全てが事実なのかどうかは分からない。信用できない部分の分析は難しいが、そのことについては、別の機会に書きたいと思う。因みに、マッカーサーの指令で中止になった世に言う二一ゼネストの時、父は米子の労働組合の委員長をしていた事実からすれば、前途洋々たる若者であったことには相違あるまい。

 

20110803

 

訂正及び追伸

 

今日(2011.08.06)、父の所へ行ってお茶を飲みながら世間話をして、上記についても確かめてみたが、父の言ったことには間違いはなかった。腹具合はあまり良くなかったが、頭の方は頗る好調だった。

昭和20年の敗戦直後のことで、父は当時島根県木次の機関区200人の代表(委員)として、米子に行った時の話のようだ。局長も大阪から米子に来られていたそうだ。

議題は、終戦直後の国策としての物資の輸送についてだったようだが、その席で、父は局からの輸送案に対し若干苦言を呈したようだった。つまり、局の案では、きめの細かさを欠いているので、父には過疎(当時過疎という言葉はまだ無かった)地への輸送が充分に行われるとはとても思えなかったので、そのことを臆せずに言ったらしいのだ。当時の佐藤さんは自分が知っているような総理の時の風貌ではなく、痩せぎすで眼孔の鋭さだけが目立つカミソリのような男だったそうだ。その局長が、自分に杯をくれて、「必ず君が指摘したような不備を解決してどんな田舎にも物資が届くようにする」と約束してくれたそうだ。それから、上座から若輩者の父を呼びにきたのは、直属の上司だったと上述したが、そうではなく、鳥取県議会の妹尾(せのう)という県議だったようだ。そんな事があったせいか、大江と言う当時の機○区長が人事に際し異例の抜擢をしてくれたそうだ。父は出世したことよりも嬉しかったのは、通常通らなければいけない技術系のポストを飛び越したことであったらしい。なぜなら、そのポストに就いたら、嫌でも図面を書かなければならない。父は、絵とか図とかは全く苦手だったからだ。

 

 

 

20110806

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

想(目次)