井魚不可以語於海者 拘於虚也  2011/6/23() 0:48

 

 

 

最近書き込みがめっきり無くなってきたので、久しぶりに自分で何かをカキコしてみようかと思うのですが、拙蛙が住む井の中にはこれといってめぼしい話題も見あたらない。で、人間世界に目を向けてみてもとんと明るい話題がみつからない。困ったものです。節電のために暗いのは仕方ないとしてもです・・。

ところで、人間の寿命は最近かなり延びてきたようですね。蛙の寿命は昔からあまり変わらないように思いますので、それにはびくりしますね。長生きすると何か良いことでもあるのですかね?みんなヨボヨボしていてトンチンカンなことを言って・・・蛙にはそんな風にしか見えませんけどね。まあ、人間の生態とはそんなものでしょうから、蛙なんぞがとやかく言うべきことでは無いのでしょうね。ただ、蛙が一番不思議に思うのは、「人間の思い」についてですね。人間は、一生のうちで色んなことを色々と思い巡らす生き物のようですが、一つのことを考えるにしても感じるにしても、その時その時によって結構大きな違いを持っているように推察するのですが、一体どの思いが本物なのかということです。幼児や呆け老人にもその時の気持ちは、全く一人前に持っているように見えることが、蛙にとっては一番の不思議です。所詮、本能に素直に従って生きていくことが出来ない人間は、蛙や犬畜生にも劣っていて、一貫性を持って生き抜くことができない哀れな存在なのかもしれませんね。いえいえ、決してあなた方人間を馬鹿にしているわけではないのですよ。ただただ不思議だって言っているだけなんですから()。。

 

 

上記は2箇月ほど前に詩心ごんどらの「何でも掲示板」に書いたものだが、最近自分が常に思っていることなのだ・・・・・もしかしたら、「思い」に本物も偽物もないのではないかということ。そして、そのことは本当に怖いことだと思う。まだ年端もいかないからとか、老人性の認知症なのだからといっても、その時々の思いはほんの一刹那のものであったとしても、本人にとってその時は人生そのものであるような気がしてしかたがない。たとえば、消防士になったつもりの幼児が、もし自分がトイレに入っている時に火事が起きて出動命令がでたら、お尻を拭かずに直ぐに出動すべきか、それともやはりお尻はきれいに拭いてからトイレを出るべきかを真剣に悩んだり、老人が孫のことばかり思っているうちに、ふと70年前の自分のことと錯覚してしまって、今日は入社式だといって早朝一張羅の背広を着込んで出発の時刻を待っているというようなことがあっても、それは笑い話ではなく、本人にとっては、まぎれもない人生そのものであるような気がする。そして幼児でもなく認知症でもなく精神的な疾患がない健常的成人の場合であっても、生きるということそのものには、何ら変わりがない・・・そう思えるのだ。そして、何故だか自分にはそのことがとても怖いことのように思えてしかたがないのだ。自分には、生きるということ自体が、とても頼りないことのように見えてしまっているのかもしれない。

 

 

 

20110725

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

想(目次)