そんな気がする@   2011/2/1() 13:48

 

 

現代詩からすっかり文語調の詩が姿を消してしまった。昭和の中頃までは、歌詞にさえ残っていたと思うのだが。口語詩に駆逐されることは、自由詩などというものが誕生した時からの宿命であったのかもしれない。しかし、そのことによって韻律というものから現代詩はまた一歩遠ざかっていったような気がする。

 

 

そんな気がするA   2011/2/1() 13:51

 

 

有り難いことに、日本語にはひらがなとカタカナの二種類の表音文字がある。この二つの特質を使い分けて詩を書くことはできると思うが、ただ朗読したものを聞かされただけでは、意味を充分に把握することは不可能かもしれない。その判別は往々にして視覚と同時にしか感じ取ることができないものであるからである。

 

 

そんな気がするB   2011/2/1() 13:51

 

 

小説には純粋な読者がいて且つそれが多数派である。現代詩にも全くいないわけではないのだろうが、少数派と思われる。
当ホームページの来訪者を解析してみても、自分が詩を書く為のサイトを探している人が多いように見受けられる。そして、有名詩人の詩を探している人が多いという事実からすれば、有名でない人(一般詩人)の詩などは、読むに値しないと思われているのかもしれない。また、もしかすると、有名詩人の詩を探している人達のなかには、詩を読むこと自体を目的としているのではないのかもしれない。例えば、結婚式の餞に自分のスピーチの中で引用するとか、随筆やブログ等に引用するとかといった目的があって有名な詩を探しているのかもしれない。

 

 

そんな気がするC   2011/2/1() 13:52

 

 

プロの歌手が歌っている流行歌をよく聴いてみれば、面白いことに気づく。歌手は歌詞に書かれた主人公になりきって、その感情どうりに歌っているのではないことに気づかされる。主人公の他にもう一人の誰かがいて、そいつが歌手を操って歌わせているように思えるのだ。だから、プロの歌は客に聞かせられるのだと思う。歌でさえそうなのだから、もし、読ませたいのなら、詩を誰かに読ませたいのなら・・。

 

 

そんな気がするD   2011/4/7() 10:31

 

 

震災と詩人

寒がりの拙蛙は広島の地中でまだ冬眠をしておりましたが、テレビを見て目を疑いました。阪神淡路大震災の時には広島もかなり揺れたのに、今回の地震ではここはピクリともしなかったからです。
この惨憺たる非常時に詩人は何も出来ない。肩身が狭い思いで胸が締め付けられるといった気持ちでいっぱいでした。いや詩人に何もできないのではなく、詩を書くことでは被災者の方々に何の役にも立たないという申し訳ないような気分でいっぱいだったのです。しかし、ただ、詩人は詩人である以前に人間であるという多様な属性を持っているのだから、それでいいのだと蛙は思った訳です。人間が人間としてできる限りのことをすれば、それでよい。そう思ったわけです。
詩を詩以上の何かにしてはいけない。つまり、詩を詩以外の何かにすることは詩人のすることではないと思ったわけです。詩は詩でしかないのだから、それでよい。そう思ったわけです。

日経新聞4月2日の文化欄(40面)では、---未曾有の惨事を前に、言葉は無力なのか、文学に何ができるのか。詩人や作家らは戸惑いながらも言葉を探り、新たな表現の模索を云々---とあり、記事の終わりの方には---被災地から発せられる声もある。「詩よ。お前をつむごうとすると余震の気配がする。お前は地を揺すぶる悪魔と、もしかすると約束を交わしているのか」。福島市に住む詩人の和合亮一は震災の5日後から、ツイッターで詩の断片のような言葉を吐き出し始めた。---とあります。拙蛙には実に自然なことに思われます。「詩心ごんどら」の「何でも掲示板」に女郎花さんが、「孤独」のタイトルで詩を書かれ、LUCIA 5mgさんが(untitled)で詩を書かれているのと本質的(詩作に係わる姿勢という意味では)には何ら変わるものではありません。詩人としては実に自然な行為です。
そもそもこの記事の問題の取り上げ方には無理がある。「文学」というモノが社会に与えることができる恩恵というものを総花的に捉え、それを前提にして、言葉の社会的役割を見いだそうとしているかに思えます。つまり詩の特殊性というものを全く考慮していないのですね。詩に力などを期待するのはお門違いなのです。少なくとも詩人は誰かを励まそうとかなんとかという目的を持って詩を書くことなど出来ないはずなのです。そんなモノは詩でも何でもないのです。
近頃金子みすゞの詩が頻繁にテレビコマーシャルにコピーとして使われているのを耳にします。これは一種の力を持っています。力を持たせるべくコピーとして使われているのだから当然のことです。しかし作者は、そのような力を発揮しようとして書いたわけではないでしょう。結果として、そのような力を持っただけのことでしょう。詩を詩として素直な気持ちで書いたことのある人なら、誰でも解るはずのことです。詩とは所詮そんなモノであるのだから、それを恥じるなら、それは詩作そのものを否定することになると思います。詩には目的などありません。あるなら、それは既に詩から逸脱したところの何かに向かっているのです。震災以後、多くのネット詩人の詩を覗いてみたのですが、そんなことは自明のことだとばかりの創作がほとんどでした。まさに無名のネット詩人の猫的振る舞いには、蛙でさえ呆れ果てる始末です()

 

 

 

  上記は詩心ごんどら蛙独言掲示板記載(平成23年前期)の転記です。

 

 

 

20110722

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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