サムライ

 

 

 

サムライがいました。いっぱいいました。いっぱいいましたが、みんな孤独でした。サムライは人間だったからです。でも、人間なんかであってはいけなかったのです。サムライはひたすらサムライでいなければならなかったからです。サムライが人間であろうとすることは、人間が猿の真似をするくらい恥ずかしいことだったのです。たとえば箸を使わないで手掴みで何かを食べようとすることよりもずっとはしたないことだったのです。サムライはいつも懐に大事そうに大義というものを抱えていました。大義とは人として守るべき道義のことですが、サムライにとっての大義とはサムライとして守るべき道義のことでした。サムライは大義のためには相手を斬らなければいけないこともありましたし、自分で腹を切らなければならないこともありました。サムライ同士の大義が衝突すれば、勿論相手を斬らなければなりません。でも、それはちっともかまわないことなのです。何故って、サムライはいっぱいいましたから、斬られても斬られても次から次へと湧いてきたのです。何しろ世襲でしたから、サムライ作りに余念はなかったのです。サムライは産まれた時からサムライで死んでいくにもサムライでなければならなかったのです。だから大義は産まれた時に与えられ墓場まで持って行くのがサムライの倣いでした。たとえ、大義というものが、万華鏡のように変化するものだったとしてもです。まあともかく、サムライという種族がいるかぎり、大義は保たれ、ひいては民の生命財産も概保全されるはずであったのです。ところが、蛙がふと気づいた時には何処にもサムライの姿が見えなくなっていたのです。いったい何処へ消え去ったのでしょう。あれほどいっぱいいたはずのサムライたち。立身出世をかけ声に内面的身分制度が崩壊していったことの負の遺産---それがサムライの消滅であったような気がしないでもありません。大義の代わりに人々が抱くようになったのは損得だったのかもしれません。でも、蛙は思うのです。サムライの姿が見たいと。そして思い出すのです。何時だったか市ヶ谷で腹を切った軍服姿の人のことを。サムライとして育つことがなかったことの無念。サムライになりたかったことの悲願。そして大義。

 

 

 

※ 2011/7/7() 17:7の直し

 

 

20110720

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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