ボケ

 

 

 

人はボケます。年を取れば必ずボケます。あなたもボケます。でも、いいのです。所詮人間は死ぬ者であると同時にボケる者でもあるのですから。そんなことは気にしないでください。年を取ればあちこちの内蔵が弱ったり、筋力が落ちたり、血圧が上がったり色んな病気に罹ったりします。老眼や白内障になったり耳もとおくなったりします。脳だけが衰えないはずがないではありませんか。長生きの代償です。いえ、蛙が人間の長生きを妬んで、そんなことを言っているわけではありません。実は蛙は迷惑しているのです。蛙の詩の三種の神器は、「駄洒落」「回文」「語呂合わせ」なのですが、そのうちの一つ「回文」が小学生の間で流行っているそうです。「ホアンインゼンインアホ」---「それを見てみんな笑うけれども、笑いながらそんな奴らに自分たちの運命を任せている大人たちこそアホだ」そう言った人もいるそうです。まあ、アホでもボケでもいいですけど、蛙が思うには、ボケていい人とボケてはいけない人がいるような気がするのです。役所や会社の定年は昔は大抵55歳でしたが、最近は60歳のようです。脳みその耐用命数が5年も延びたとは蛙にはとても思えませんけど、少子高齢社会にあっての苦肉の策なのでしょうか。役員はどこをみても殆どジジイですね。蛙はいろんな事情から今まで様々な老人と接してきたけれども、やはり、何処かがイカレてきていました。と同時に異様に研ぎ澄まされた部分が出来てきているのには驚かされました。ボケの客観性、つまり認知症の程度を数値化する為のテストや脳のMRIによる検査などとは別の次元のボケ---そんな類のボケがあるような気がします。映画監督であれば、美的感覚だけが先行してしまって全体の構成が疎かになってしまったり、書評家であれば、その書き手が何を言おうとしているかを主眼にしないで、今までの経験が先行してしまって書き手の性癖とかを無意識のうちに分析することを主眼としてしまうとか・・・蛙は特に意地悪な眼で見ているつもりはないのですが、ひょっとしてボケているのではないかと、失礼ながら年配の芸術家に対して思ってしまうことがあるのです。でも、芸術ならボケていようがどうだろうが殆ど人畜無害ですからいいのです。特に詩の場合はどんなにボケた人の詩だって一向に構わないし、寧ろ、そんな視点からの方が真実を見抜くことができる場合だってあるのかもしれません。詩は芸術の分野では最も主観的な分野であり、最もボケてもいい分野なのだと蛙は考えています。しかし、絶対にボケてはいけない人たちはいっぱいいます。ボケてはいけない社会的立場の人たちにとって、ボケることは罪なのです。欲ボケなどは最低です。欲ボケもある意味特殊性癖の突出であるのかもしれません。そのために著しい統合性の欠如をきたすことだってないわけではないでしょう。もし、そんな人間が首相なんかだった日には、人類と両棲類だけの問題とは蛙にはとても思えないのです。

 

 

※ 2011/7/9() 1:22直しです。

 

20110719

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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