思い出しちまった奴のこと 2011/8/7() 4:35(掲示板より転載)

 

 

 

今日、長野の猫さんからメールを貰い近況をしりました。根気のいる闘病生活のようですが、門さん、なんとか元気になって貰いたいものだと思いました。今日見たニュースと門さんとがリンクしてしまって思い出しました。田君のことです。あの時のことを猫さん、憶えているでしょうか。保谷市(現西東京市)の公務員アパートに田君が住んでいるということで、門さんが、わざわざ案内してくれたのでした。アパートが見える距離の所の公衆電話から門さんが電話してくれたのですが、田は僕に会うために階段を下りてはこなかったのです。僕と電話で話したことは、渡君が、今でも成田に通っているかということでした。そうらしいと答えたら、酷く怯えている様子が受話器に伝わってきたことを憶えています。僕は一度も成田なんかへは行ったことは無かったのですが、もしかしたら勘違いしていたのかもしれません。田が下りてこないと知った門さんのがっかりした顔を今でも憶えています。田門さんとは高校(金沢)時代の親友でした。そして僕と田とは、同じ大学の学術会=済学会の仲間でした。そして僕の親友の城と門さんは二人が同じ大学で偶然にも飲友達になっていたのです。田は僕などから見ればそんな立派なやつには見えなかったのですが、何故か門さんは、彼のことを尊敬している風でした。田T大を落ちてC大の法学部に入っていました。門さんはW大でしたが、その頃は法学部の場合、W大よりもC大の方が幾分人気があったようです。当時田は厚生労働省に上級職として入っていました。学生時代C大の済学会なんかに所属していたことがばれれば出世の妨げになるとでも思っていたのでしょうか。僕は官僚というものを多少とも知っていたので、余計にさもしく思ってしまいました。官僚になっていたとしても、一度は済学を目指していた人間なのですから。因みに野学派の経学者はC大にはいませんでした。ですから、大学院を目指す者(会員は殆どがそうだった)は、T大か私立のH大を目指していました。多分、田はどちらも落ちたのだと思います。そうでなかったのなら、ごめんなさい(笑)。つまらないことを思い出しましたが、6日、40年以上にわたり、成田空港反対闘争の象徴だった団結小屋はあっけなくたったの5時間ほどで撤去されました。その後の渡君のことは知りません。田がどうなったかも知りません。それにしても、あの頃、6千の赤ヘル軍団を扇動していた数十人の学術会員の人生----それぞれの者が色々な経験をしたのだろうとは思いますが、いよいよ終わりに近づいてきたなあと、しみじみと思う今日この頃です。

 

 

 

20110808

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

想(目次)