カン蹴りから思い出した父の話A

 

 

 

国鉄から島根県の道路○理局に移っていた父は、その頃、若い県会議員と懇意になった。その議員は、○部長右衛門の推薦というよりも指令を受けて政界入りしたと言った方がいいのかもしれない。戦後GHQの指令により農地解放がなされ大方の地主は崩壊したが、山林は解放の対象にならなかった。そのため世襲的大山主であった○部長右衛門、○井三郎右衛門、○原武太郎の三人の分限者が島根県の政界及び財界を牛耳るようになっていたのだが、その内でも最も有力だったのが、県知事も歴任した○部長右衛門だった。そして、その議員の家柄は代々○部家のいわば番頭格の一つであったらしい。父とは毎週顔を会わせるくらいの濃厚な付き合いがあったようだが、昭和33年に父は広島○運局に転任し、そして、その議員はやはり昭和33年に衆議院に初当選し、東京にいることが多くなった。

それから13〜14年経って父が出張で霞ヶ関へ行った時の話だが、次官はじめ局長クラスの人達が、少し席を外していた父を捜して大騒ぎをしていたことがあったそうだ。「おお、○藤君、何処へ行っていたんだ。みんな君を捜していたんだぞ。一体、何があったというんだ。広島でどんな大事故をやったんだ。官房長官が君を名指しで、自ら電話してきたんだぞ。」ってなことだったらしいのだが、父は直ぐにピンときたらしい。官房長官に電話をかけたら、案の定、「ああ、○藤さんかね。ご無沙汰しちょおます。さっき、用事があって広島へ電話したら、○藤さんがこっちに来ちょーなーって聞いたもんで・・。官邸前に青木を立たせちょくけん、こっちに来なさいませ。総理官邸を案内させますけん。」なんて人騒がせな電話だったことか。青木というのは後に参議院のドンと言われた秘書の青木○雄ではなく、竹○登の楯になって潔く死んでいった秘書の青木○平のことである。父は○平さんとの親交もあったようで、実直な人だったと言って死を悼んでいた時のことを、僕もよく憶えている。あの頃、褒め殺し事件に関わった暴力団の何人かは、父も顔を知っているらしかった。自宅へも何度もきたようだ。勿論、リクルート事件とは関わりのない別の事案で父は脅されていたらしいのだが。父はヤクザとも警察とも関わりが深かったが、それはやはり許認可が絡む仕事を担当することが多かったせいで、仕方のないことだったのだろう。ヤクザとの話と警察との話はまた別の機会にすることとしよう。

 

 

 

20110805

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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